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この度、東華書院は、ホームページを立ち上げ、広く書道に感心のある皆様に、本会の活動の様子をお知らせさせて頂くことと致しました。

書道離れといわれて久しいですが、それでも書道団体は多数存在し、それぞれに活動を続けているのは、大手新聞社主催の書道展等からも窺い知る事が出来ます。 書道団体が多数あるならば、改めて東華書院がホームページを作らなくてもと思われるに違いありません。 それでもホームページを立ち上げたのには理由があります。 それは、東華書院が他の書道団体と極めて異なる団体であるからです。どこがどの様に異なっているのか、その事を、皆様に知って頂きたく、ホームページを立ち上げる事と致しました。

本会の成り立ち等につきましては、沿革にお示しした通りですので、そちらをご覧頂きたいと思います。 沿革に記しましたように、東華書院は、現在の会長の父、故齊藤華城が昭和の初め頃に設立した団体です。戦前の書道ブームは今とは比較にならない規模だったようで、本会も東京に書道専門学校を設立し、会員数13万人を数えるマンモス書壇だった事が過去の会員用の月刊誌に明らかです。

ある月の誌には、「戦闘機一機を国に献納出来ました。有難うございました。」という華城の御礼の挨拶が載っています。戦闘機一機の値段がどれほどだったのか見当もつきませんが、とんでもない金額だったでしょう。会員からの寄付を募り果たせた事としても当時の書道の隆盛ぶりが窺えます。また、東華書院に関わられた書人の中には先年お亡くなりになられた杉岡華邨先生も昭和16年の東華誌に杉岡正美の本名で本会委員として名前が載っております。 当時の本会委員は、北海道から朝鮮、満州、台湾に至るまでおられました。千代倉桜舟、国井誠海、加藤翆柳の三名は、東華の三羽烏と言われました。しかし、その繁栄ぶりも、東京大空襲の後は一変してしまいました。

戦後、華城は、生家の22代目を継ぎ、地元の千葉県立木更津東高校の教師となり、書道の指導を続けておりました。 戦後は書道熱も戦前程は無く、本会会員も激減し、昭和62年華城が亡くなったときは、会員数はわずか1500名ほどしかおりませんでした。そして現在の会員数は、1000名ほどです。

現在の会長は、華城の末子で五(い)十(そ)二(じ)といいます。書号は華秀です。 20歳の時に、故武士桑風先生のもとで古典の臨書を学び始め、約8年間通いました。ところが1976年、23歳の時。画家大野忠男先生に出会い、 美術史や美術論を学ぶ事となりました。それが人生を変える一大事となったのです。

大野忠男先生は、アイルランドの石の美術を拓本にして、日本各地で展覧会を開催されました。その意義と開催内容は、別の機会に紹介させて頂きますが、その展覧会の開催や、アイルランドでの拓本採集を手伝う事で、美術の何たるかを学び、 その事が東華書院における書道の進む方向を確かなものとしている事をご理解頂きたいのです。

去る9月6日から同21日の間、日本ケルト協会会長の山本啓湖氏から依頼され、同協会主催の『アイルランドの石の美術 拓本展』を福岡市で開催しました。 展示作品は、大きいパネル仕立ての拓本で、横巾370cm×縦170cm厚み4cmという物から、30cm×30cm、厚み3cmという小さな物まで101点。その他、アイルランドの写真や解説パネルなど20点余りも陳列した大展覧会でした。 ケルト美術の意義をこの展覧会を通して多くの皆様に知って頂く事が出来たことを、この展覧会の開催を望まれた山本啓湖氏に心から感謝しております。 美術の中でケルト美術がいかなるものか、それが書とどのようにかかわっているのか、 本来美術とは何か、書の美とは何か、広く美術全般からそれらの美の意義をはっきりと理解した上で、書の美を追求してく事が東華書院の仕事であると思っております。

東華書院本部には、書道関係の資料(中国原拓本集帖など)以外に、アイルランドの石に刻まれた文様の拓本や、スカンジナビア各地の巨石に刻まれた絵や文様の拓本、大野忠男先生の作品(絵や陶器、著書)、新井狼子先生の書、須田剋太の絵、井上三綱の書画などが収蔵されギャラリーを設けその内の数点を常設しております。

東華書院 会長
齊藤五十二
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